生い立ち3(高校生)
理事長の塩原祥暁です。
高校3年間は「勉強が好き」になっていくことを中心に記していきたいと思います。
志望校には入学できませんでしたが、他の私学へ入学しました。その高校には必ず行きたいという思いでは正直ありませんでしたが、学校説明会に行った際にすごくよくしてくれた先生がいました。そして入学式にその先生と会いました。その際に「うちに来てくれてありがとう。」と言われたことがとても嬉しかったです。クラスには23区から通う生徒は3人しかいませんでした。練馬区から2人、杉並区からは1人です。そのような環境で、友達はできるのかなと不安でもありましたが、幼稚園から小学校へ進学した際も私は知っている人がいなかったので、意外と一人に慣れていました。席が前後の人と最初は仲良くなり、その後は23区から通っているという物珍しさがあったのか一気にその話をネタに交友関係は広がっていきました。
5月には初めての中間テストです。勉強アレルギーの私には耐えられないストレスです。しかし、そんな不安を払拭するかのように、好成績でした。それと相まって高校では、「絶対評価」でしたので、頑張れば頑張った分きちんと通知表で評価をされるシステムでした。中学校の時に味わったことのない「やればできる。」という思いは、高校生活で確信に変わっていきます。その勢いのまま、1学期末テストも好成績を残します。やればやった分だけ成績に評価されることが楽しくなり、1年時の成績は学年で200人程度いましたが、毎回10番以内に入りました。性格は基本的に真面目なので、ノートをしっかり取るタイプでしたし、各教科の先生からも本当によくしていただいていました。そうなると思ってもいないことが起こります。クラスの友達がテスト前になると、私のノートを借りに来ます。それと、毎回自分より上にいる成績の人を抜かしたくなります。確実に勉強にスイッチが入った瞬間です。高校2年生でも成績は落ちることなく、コンスタントに成績を残します。3年生になると、今でも一緒に飲んだり、遊んだりしている友達と一緒のクラスになり、とても充実した日々を過ごしました。ちなみに3年間同じ女性の担任でそんな人は、私ともう一人女子生徒のみでした。よほど気に入られたのか、何なのか・・・。
遡りますが、高校一年の冬に母が病気で他界しました。私が小学校3年、姉(園長)が6年生の時から母親の闘病生活は始まりました。小学校から帰ると二人で地下鉄を乗り継いで、入院先の文京区にある日本医科大学付属病院へと毎日のように通う生活が定期的に始まりました。病院に仕事終わりに父が来て、そこから3人で帰宅するというのが、慣例でした。帰りの電車などで何を話していたのかは記憶にありませんが、小学生の時にはそのような経験をしています。母は最期は家で迎えたいと言っていたので、家にいましたが、12月の終業式の日に「病院に行かせてほしい」と頼んだそうです。おそらく限界だったのでしょう。私は学校帰りにその連絡を受けましたが、それと同時に「母の死」を覚悟しました。緩和ケア病棟と言われるホスピスというものが日本にはあります。人間の尊厳を大切にする場で「人間が人間らしく最期を迎える場所です。高校では、友人にも母が亡くなったことは誰にも言えませんでした。言いたくなかったというか、かわいそうと思われたくなかったという気持ちが強かったです。これが思春期というものでしょうか。
さて、3年生ですので、進学があります。学内で成績は上位をキープしていましたので、ここで、教員免許が取得できる大学に絞りました。当時は小学校教諭免許が取得できる大学は、そう多くなく、限られてしまいます。だから倍率も上がります。学校からの推薦を利用して受けることにしましたが、試験科目は小論文と面接です。小論文はとにかく教育時事に焦点を当て何十回も書いて練習し、国語科の先生にも何度も添削してもらいました。高校では努力すれば報われるという実体験をしていますから、その経験だけが自分を奮い立たせてくれました。
そして念願の志望校へと合格をするのでした。(つづく)

