生い立ち2(中学生)
理事長の塩原祥暁です。
勉強が嫌い・・・。ここで終わりません。この勉強嫌いの気持ちがどのように変化していくのかぜひお読みください。
今は、中学受験当たり前が首都圏の定番です。ちなみに23区の公立中学校の先生は、小学校に営業に行く時代です。それから、私の過ごした杉並区の学区では今も、昔も小学校の3校から集まってクラスが編成されます。私が通っていた時代は、当然ながら小学校よりクラスう数が増加します。現在、私の母校にお子さんを通わせている保護者の話では、A小学校3クラス、B小学校3クラス、C小学校2クラスあり、当然クラス数は各小学校より増えると思われますが、中学校のクラスは3クラスとのことです。ほとんどが中学受験をしているということです。
前置きは長くなりましたが、私が中学に上がるときも中学受験をする子がとても多かったです。しかし、合格をもらえなかった子も多く、みんな公立に流れてきました。当時は相対評価といって5の評価をもらえる子が〇%、4が〇%とそういった評価でした。勉強をやっても、やっても到底及びません。どんなにまじめに授業を受けていても、本当に私は勉強が苦手でした。また、小学校の5年生頃、地域の塾(家庭的な大手とは違う)に通い始めました。通っていた場所が、同じ小学校の生徒がいないのも私にとってはよかったです。しかし、同じ小学校の生徒が4人ほど入ってきてどんどんクラスを抜かされていきました。これが、もしかしたら人生初の劣等感を味わった瞬間です。特に数学は悲惨でした。理科も同じく。というより、すべてどんなに頑張っても上には上がいると突き付けられた3年間でした。
そうなると、野球しか道はありません。当時は杉並区でもまあまあ有名でした。(身体が大きかったので、それだけで目立つのです。)とにかく道具にこだわり、道具を大切にすることも学べたと思います。野球はクラブチームに入っていましたが、中学3年生になるタイミングで辞めました。監督とうまくいきませんでした。それと同じ時期に私は今でもお世話になっている恩師に出会うのです。当時、通っていた中学校には野球部が休部状態でありませんでした。昔、顧問をしていた先生はいましたので、私は、授業を教えてもらったわけでも、何も接点のないその先生のところに行きました。「先生、野球部を作ってください!」最初に言ったことはこの言葉です。それからというもの、朝の集会や廊下で見かけると、あいさつのように「野球部を作ってください!」とアプローチしていました。そのような経緯もあり、中学3年生になったと同時に野球部が復活しました。メンバーはある程度、集まりました。しかし、初心者や小学生のころやっていたけど、辞めている者もいて、「勝つ」は二の次です。むしろ勝ったら、その一勝は甲子園に出場みたいな感じです。しかし、その野球が私にはとても楽しく、充実した毎日でした。
中学3年生といえばだいたいどの部活も8月で引退して高校受験に向かっていきます。私はずっと3月まで引退せず、野球をやっていました。
それと同時に教職に就く夢もこのころに芽生えました。母からも、小学校の先生なんていいんじゃない?と漠然と言われていました。そして、その恩師との出会いが背中を勝手に押された感じでした。
ここで、一つ問題があります。私は生い立ち1で述べたように勉強は嫌い、頑張っても成績の上には上がいる。これが強烈にコンプレックスとして植え付けられてしまっていました。志望校には成績が足りません。その学力とは対照的に学級委員は毎回担任から「シオ(先生から当時そう呼ばれていた)また、頼む。」と言われて学級委員をずっとやっていました。修学旅行の実行委員長もやりました。それでも内申だけではどうにもならず、志望校は諦め他の高校を受験するすることにしました。結果的に高校で出会った友人とは今でも集まるので、一生モノの友人を手にしたのでおおきな財産です。このような3年間を通して高校へ向かうのです。(つづく)

